今日は、雲が多いながらも穏やかな晴れの朝です。真っ白な富士山に墨で書いたうすい髭のような雲がかかり、墨絵のようでした。
今日は、久しぶりに建設業に関するネタを書いてみたいと思います。
日頃から感じている私自身の素朴な疑問なのですが、よく言われる「談合害悪論」ですが、地場の公共工事という産業の中で機能してきた「談合」のすべてが害悪なのでしょうか。
昨日ニュースになった国交省における「官製談合防止法の適用」は、言語道断で論外ですが・・・
通常、公共工事で犯罪とされる「談合」は、刑法96条の3第2項の競売入札妨害罪に問われる場合ですが、
競売入札妨害(談合)罪
刑法96条の3第2項は競売や入札で、公正な競争が実施された場合に決められるべき落札価格を害したり、不当に高額な経済的利益を得る目的で談合した者を2年以下の懲役または250万円以下の罰金に処すと定めている。いわゆる刑法の談合罪。談合で決めた内容に従って行動していない場合でも、話し合いに加わったと認められれば適用される。
ここでいう「公正な競争が実施された場合に決められるべき落札価格」とは何かについて社会的にきちんとした説明が為されているとは思えません。
公共工事の予定価格は、設計、施工の分離発注が原則で、まず、調査・設計費用が予算計上されて入札によって設計業者が決まり、設計によって設計価格が決まります。ここで仕様や部材が決められ、その設計価格に基づいて施工のための予算が算出されて議会の承認を得た上で発注者が歩切りを行って予定価額を算出し、入札が実施されるわけだと認識しているのですが、そうであれば、予定価額を100とした場合、既に設計仕様がすべて決まっているわけで、設計図書に基づいて入札参加者が適正に積算ソフトに入力すれば同様の価格が出てくるはずで、その中で部材の仕切り値や作業工程での歩掛かりの違いなどを勘案し、自社の適正な利益を考慮して入札価格をそれぞれが決定して入札に参加をしているとすれば、95%前後の落札価格であっても決して不公正な価格ではないと思うのです。
そう考えると、良くオンブズマンの人たちが言う「95%以上の落札価格の場合は、すべて談合があったとみなされる。」というのは、どうも納得できません。逆に、発注者が決めた最低落札価格(例えば予定価格の85%)に殆どの入札参加者が寄りつき、ほんの数万円の差で失格になる方が遙かに不自然に見えます。
公共発注者の中には、「○○億円浮かせた」などと自慢げにしている首長さんもいますが、だとしたら、設計価格に基づいて議会の承認を受けた予算そのものに問題があるのではないか。と、いいたくなります。建設工事は、受注生産であり、他の製造業のように既に出来上がっている製品を売っているわけではありません。設計図書があって、その設計に従って建設物を築造するものですから、入札の時点では、まったく形がないものの価格を決めることになります。その段階で設計積算されている価格から10%以上下げなければ適正な価格とならないとすれば、受注者の適正な利益はどうすれば確保できるというのでしょう。
競売入札妨害(談合)罪のもう一つの構成要件は、「不当に高額な経済的利益を得る目的で談合」をしたこととあります。談合によって予定価格以上に落札価格をつり上げたなら「不当に高額な経済的利益」と言えるのでしょうが、予定価格の範囲内で、「不当な利益」というものが成立するのでしょうか。よく解らないところではあります。
公共工事の目的は、「市民にとって有用で且つ安全で良質な社会資本を安価で提供する」と同時に地場経済を支える役割を担ってきたはずです。価格のみの競争によって「安かろう、悪かろう」ではすまされないと思うのです。これまでの「配分の論理」に基づく公共工事の中では、互いの共存を図り、適正な利潤を確保することの見返りとして、受注者である建設業者は、災害予防に協力し、ひとたび災害が起これば地域のために真っ先に駆けつけ救助活動や復旧作業を担ってきたことは事実だと思うのです。
私は、すべての「談合」を容認するものではありませんが、しかし、すべての「談合」が害悪だとも思っていません。アメリカから直輸入された独占禁止法が幅をきかせて価格のみの競争を煽り、社会全体を疲弊させている現実に疑問を持っているだけなのです。
新潮社 (2007/01/16)
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