今日は曇り、日中は晴れるようです。気温は、昨日よりかなり下がったように感じます。
今朝のニュースは、新聞、テレビともに「週刊文春発行差し止め仮処分の取り消し」の高裁判決でした。高裁の判断は、表現の自由に重きを置いて「回復不可能なものではない」ということで地裁の判断を取り消したのですが、週刊文春の記事については社会性、公益性はなくプライバシーの侵害にあたる違法なものであるということは認めているようです。
今回の高裁の決定を予防法務的に考えてみましょう。
高裁の決定でも述べているように、マスコミが何を書いてもよいことにはならないわけですが、プライバシーと表現の自由については、それを判断するために必要な社会的規範が十分に国民的議論経てつくられているという社会的環境にはなく、様々な議論がなされる環境にあります。
現状では、たまたま田中真紀子という有力(?)、有名な国会議員の娘に関する記事であったために田中氏側が事前に記事の内容を察知し、仮処分の申請になったのだと思うのですが、マスコミによる一般人に対する人権、プライバシーの侵害や事件にまつわる報道被害は、枚挙にいとまがないほどです。なのに一方では、毎日ニュース番組の中で緊張感のない「こんなものがニュースになるのか」と思えるような話題がだらだらと報道されているのです。
今朝も「出川の婚約」などという本当にどうでもよいと思えるニュースをだらだらと20分近く流しているテレビ局もありました。週刊誌ネタのほとんどが同様の感覚でつくられているような気がします。
「表現の自由」であるとか、「検閲をしてはいけない」という憲法の規定は、戦前戦中の軍国統制への反省から作られた規定であり、マスコミの自由放任主義を保護するためのものではないはずです。マスコミが、「表現の自由と国民の知る権利」の保護を謳うのであれば、本当に国民にとって知る必要のある事実を報道するべきであり、単なる興味本位や売れればよいという商業主義に基づく記事(報道)に対する「反省」をするべきであると思うのです。
今回の高裁の判断は、これまでの判例を踏襲した判断のようですが、「プライバシーの侵害によって回復できないほどの損害はない」として、事後救済を求めればよいとしていますが、いったん侵害されたプライバシーは、その内容によっては損害賠償という金銭に換価できない精神的ダメージを負わせる場合が少なくないように思うのです。
マスコミによる「表現の自由」は、個人というより組織によって実現しているわけで、侵害されるプライバシーの多くは個人の権利なのです。だからこそ、個人の権利の方を重く見るべきなのだと私思うのです。マスコミは一時に大量の情報を広い範囲の人々に発信するいわば「公器」なのです。その「公器」に侵害される個人の権利に対して、「事後救済があるではないか」というのは、あまりに冷たすぎる社会なのではないでしょうか。
小関事務所から日々の徒然
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